Nigel Mansellはイギリス中部の地方都市・Upton-upon-Severnにて, 1953年8月8日,父親・Eric,母親・Joyceの間に4人兄弟の第3子として生まれる. 父Ericはエンジニアで,ごく普通の田舎の庶民の生まれということになる. しかし,父Ericの転職により,Nigelは幾度か引っ越しと転校を経験している.
学業の成績はごく普通であったが,スポーツは得意であった. そして,サッカーなどが特に好きであったが,負けず嫌いな性格は このころからすでに兆候があったようだ.
子供の頃からNigelは車の運転が好きで, 彼の運転技術は母親・Joyce方の遺伝だったようだ. かなり小さい頃から,彼はスピードの虜になり, この頃の情熱によって彼は世界のトップへと登り詰めることになる. 父Ericは,彼に才能を感じ,中古のカートを買い与えている. 当時のお金で25£ほどの安いカートである. このカートを近所で乗り回し,運転技術を磨いた. そして,当時レースに参加するための資格は11歳から得られたのだが, 彼は1歳年をごまかして,10歳でライセンスを取得している.
レース参戦当初は,マシンも中古のオンボロで, まともにフィニッシュすらできない有様だったようだが, 父親と共にこの『遊び』にのめり込んだ. そして,地方で開かれるカートレースを見つけては出かけていき, 参戦した. やがて,新しいマシンを手に入れたNigelは14歳で, カートのジュニア選手権で初勝利を遂げている. その後,その新しいマシンで幾多の勝利を上げるようになった. しかし,そこから上に上がるには, Mansell家には金銭的な余裕があまりにも無かった. 結局,カートで10年以上も戦い続けることになった.
しかし,ある時転機が訪れる. Formula Fordの1日レッスンを15£で受けられるという 機会を得たので,Nigelはこれを受けた. そして彼はこれが非常に優秀だったため, 1977年にFormula Fordに参戦することとなった. 時に,Nigelが19歳であった. そして,初戦で勝利を得たNigelは快進撃を続け, 結局その年のFormula Fordを制覇してしまったのだ!
この頃には自分の目標としての『F1』がすでに心の中にあった. もはや,遊びではなくなったのだ. そしてFormula Fordを制覇した翌年より, F1への登竜門であるF3にステップアップした. しかし,自己資金もなく,大きなスポンサーも持たないNigelは, すぐに参戦資金が尽きてしまった. そして,すでに結婚し,糟糠の妻であるRosanneと共に, 唯一の財産であった家も売ってF3に参戦し続けた. それでも1979年,ついに資金が底をついた. 絶体絶命のピンチに追い込まれたが, 神はNigelを見放さなかった. 彼の類い希なる速さという才能を見抜いた男がいた. Peter Winsorである. Peterは,当時LotusにいたPeter CollinsにNigelを売り込んだ. そして,その速さを知ったColin Chapmanは彼をテストに呼んだ. ついにNigelにF1への道が開けたのか!?
Nigelはその時,実はレースで頸椎を骨折するという大けがを負っており, 通常なら断念すべき所であった. しかし,これを逃せばチャンスは再び来ないと信じたNigelは 鎮痛剤を打ってChapmanとのテストに臨んだ. そしてそのテストを彼は一発合格した. なんと,コースレコードをたたき出すという快挙つきで! NigelはLotusのテストドライバーとなることになった.
かくして,『お金を払って』マシンに乗るドライバーから, 『お金をもらって』マシンに乗るドライバーへと変化したNigel. 時に1980年,Nigelが27歳の時であった. そしてついにその念願のF1マシンでのデビューが訪れた. 1980年第10戦・Austria GPである. しかし,彼の乗るLotus81B Fordは,なんと燃料タンクから燃料が漏れていたのだ. 漏れた燃料はNigelの背中にしみこみ, 彼は激痛の中,マシンを走らせたが,彼よりも先に41周目, マシンが逝ってしまった・・・. その後,Dutch GP,Italian GPと出場したが, Dutch GPでは予選不通過,Italian GPは予選16位,決勝リタイアに終わった.
翌1981年より,LotusのNo.2ドライバーとして フル参戦するようになった. この年の第4戦,Belgian GPで彼は予選10位スタートから決勝3位表彰台で, 初得点・初表彰台を成し遂げた! しかし,この年の目立った成績はこのくらいで, あとは第5戦のMonaco GPでの予選3位, 最終戦USA GPでの4位入賞くらいであった. この年のドライバーズランクは14位であった. 1982年もLotus91B Fordで走ったが,3位表彰台1回,4位入賞1回に終わっている. 1983年の途中からエンジンがFordからRenaultのターボエンジンに変わる. すると,それまで予選で15位〜20位あたりをウロウロしていたNigelが, 予選でTOP 10圏内に入るようになる. この年,計10ポイントを挙げ,ドライバーズランクも12位に上がる. 1984年にはUSA(East) GPで初のP.P.を獲得するなど, 次第にその速さを見せ始めた.この年,13ポイントでドライバーズランク9位で終わる. そして,この年限りでLotusを後にすることになる.
1985年,NigelはKeke RosbergのいるWilliams Hondaに移籍. ここで,KeKeの白いカーナンバー6番との違いを目立たせるため, 彼のカーナンバー5番を赤く塗った. 以降,Williams時代には一貫して赤い5番をつけていたことから, 『Red 5=Nigel Mansell』という代名詞が誕生することになる. 最初は予選でこそ速さを見せていたものの, 決勝レースではツキもなく,たいした成績は上げていなかった. しかし,第13戦・Belgium GPで2位フィニッシュを遂げると, 続く第14戦・European GPでついに念願のF1初優勝! そしてさらに第15戦・South African GPで連勝を飾る. ついにMansellの実力が速さと勝利に結びついたのだ! この年,2勝を挙げ,計31ポイントでドライバーズランクを6位で終わる. ようやくNigelはトップドライバーの仲間入りを果たした. 翌1986年,チームメイトはNelson Piquetに変わる. 当時,Nelson PiquetはNigelよりもかなり格上 (1981年,1983年にワールドチャンピオンに輝いていた)なので, NigelはまたしてもNo.2の扱いとなる. しかし,このような逆境になると俄然燃えるのがNigel. この年,同僚のPiquetを強烈にライバル視しつつ, ワールドチャンピオン争いをAlain Prostと繰り広げたのだ. Nigelは年間5勝,この年の最多勝だった. しかし,Nigelはリタイアも少なくなかった. 結局,(このころは有効ポイント制だった)この年Nigelは70ポイントを稼ぎ, 同僚のPiquetは69ポイントで, 元・ワールドチャンピオンを相手に1ポイント上回った. なお,この年のワールドチャンピオンに輝いたのは72ポイントのAlain Prostだった. つまり,あと2点でワールドチャンピオンにNigelは輝いていたのである. 最終戦はオーストラリアGP,ここで2ポイント, つまり5位以上でフィニッシュしていれば・・・. この最終戦でNigelは左リアタイヤをバーストさせてリタイア, ワールドチャンピオンをProstにさらわれたのである.
翌1987年も相変わらず,PiquetとNigelの確執は続く. このころはほとんどのチームでチームオーダーというものがあり, No.1ドライバーとNo.2ドライバーははっきりとその役割が分けられていた. だが,Williamsにはそれがなかった. そのために2人の間のただならぬ雰囲気は加速するばかりであった. 1987年,この年Nigelは年間16戦で6勝も挙げた. しかし,ワールドチャンピオンは年間3勝の同僚・Piquetだった. 最終戦・日本GPの公式予選で激しくクラッシュし, 決勝は出場停止を医師から言い渡され不出場. これによりPiquetのチャンピオンがほぼ確定したのだった (Piquet:73ポイント,Nigel:61ポイント).
翌1988年はホンダパワーも失い,非力なJuddエンジンで闘うことになった. しかし,いくらNigelでもあまりに非力なマシンでは もはやチャンピオン争いには加わることは不可能だった. この年,2位を2回記録したのみで, ドライバーズチャンピオンシップで9位と惨敗した. ちなみにHondaとタッグを組んだMcLarenは, Alain Prost7勝,Ayrton Senna8勝(ワールドチャンピオン)で, なんとMcLarenは年間16戦中15勝という異例の快挙を成し遂げている. その年の末,Nigelは静かに跳ね馬・Ferrariへと移籍をする. しかし,1989年のFerrari640はあまり出来が良くなく, Nigelも初戦・Brazilian GPと第9戦・Hungarian GPで2勝したのみで, 計38ポイント,ランキング4位にとどまった. 翌1990年,FerrariにAlain Prostが移籍してくる. ここでもやはり,格の違いによりNigelは最後までNo.2扱いとされ, それに不満を持ち,シーズン中に引退発言. 『無冠の帝王』もこのまま幕を閉じるのか・・・. この年,Nigelは37ポイントでドライバーズランキング5位に終わっていた.
しかしその後,Nigelは引退発言を撤回し, Renault V10エンジンを手に入れたWilliamsへと舞い戻ってくる. このRenaultパワーをバックに,また同僚が百戦錬磨の『鉄人』Riccardo Patreseで この2人の仲も悪くなく, Hondaパワーにのみ頼ったMcLarenのAyrton Sennaを唯一脅かすドライバーとなった. その年,年間5勝し,ドライバーズランクで惜しくも2位となった. 翌1992年は,開始早々Nigelの破竹の快進撃だった. Renaultパワー+Adrian Neweyによる空力デザイン+Patrick Headによるリアクティブサスペンション そしてそこにNigel Mansellの怒濤のドライビングの前に, もはやAyrton Sennaでさえ敵ではなかった. 開幕5連勝に始まり,結局年間9勝の(当時)年間最多勝を記録し, また,年間獲得ポイントも108ポイントと,これも(当時)年間最多ポイントを獲得, 2位の同僚・Patreseの倍近い得点を挙げて, 見事に『無冠の帝王』の名を返上し,ワールドチャンピオンの栄光に輝いたのだった.
しかし,喜びはほんの束の間であった. Nigelの最も嫌うところの『政治力』により, 1992年は1年間,『休養』し,『あのマシンなら誰が乗っても勝てる』と豪語していた Alain Prostが翌年,1993年シーズンのWilliamsのシートを獲得することとなった. Nigelはそのような『見えざる力』に翻弄されることに疲れ果て, シーズン中に自身2度目の『F1からの引退』を宣言. また,他に良いシートが得られれば戻るのでは?との声もささやかれた. 実際,その後何戦か,WilliamおよびMcLarenでF1に数戦出場している. しかし,1993年シーズン,彼はCARTのドライバーへと転身を図った. そこでNewman-Haas Lola-Ford Teamのシートに身を修めた彼は, 前年F1チャンピオンになったばかりで脂ののりきった時期であり, そこでも彼の敵はいなかった. デビューシーズンでいきなり5勝を挙げ, ここでもチャンピオンの栄光に輝いたのだった. F1とCARTと連続してチャンピオンを獲得したのは, 史上初であり,現在もNigelだけが記録している. (なお,F1とCARTの両方でチャンピオンになったのは,Nigelの他に Mario Gabriele Andretti,Emerson Fittipaldi,Jacques Villeneuveの3人)
その後,NigelはF1からは足を洗ったが, BTCCに参戦するなど,まだレースへの情熱は冷めていなかった. また,歴代のF1名ドライバー達による第1回『Grand Prix Masters』に参戦し, 見事勝利を収めている(2005年11月,南アフリカで開催). 一方,それ以外には趣味のゴルフに日々を費やすこととなった. 友人でプロゴルファーであるGreg Normanと親交が深く, ゴルフの腕前はほとんどプロ級と言っていいほどの腕前だ. 現在,イギリス・Woodburyに広大なゴルフ場を持ち,経営している.